ひきこもりのシンママが元おたくと結婚してみたら

ひきこもりだったシンママが元おたくの夫を捕まえて結婚してからの日記ブログ。ネット仕事の話なども

恋人ができました。幸せだけど、幸せを疑ってしまう損な性格の私。

”幸せ”なときに『幸せだ』って、断言できる人が羨ましい。

 

私も”幸せ”を感じることはある。『幸せだ』っていうこともある。

けれど、次の瞬間に『でも、この幸せはいつまで続くんだろう?』『もしかして、幻なんじゃないだろうか?』と、心のどこかで疑ってかかっている自分がいる。

いつからこんな”癖”がついたのかは覚えていないけれど、せっかく上手すぎるくらい上手くコトが運んでいるのに、この猜疑心が水を差して、乗れていたはずの”幸せ”の波から放り出されることが多かった。

波から放り出されてもう二度と元には戻れない状況になって初めて気がつく『ああ、あの”幸せ”は幻ではなかった』という事実が、正直辛い。だって、放り出された波にはもう乗れない。残るのは、私の猜疑心に振舞わされた人たちからの私に対する”不信感”。

 

どうして今、こんな話をするかというと、今、私が”幸せ”だから。

それで、その幸せを疑ってかかりつつあるから。

 

市役所の試験には落ちたし、職場からは飛び出したし、新しい職のあてもないし、恩師と慕っていた人は色ボケしちゃったし、好ましくないことがたっぷり起こっているけれど、一連のすったもんだの最中に恋人ができた。

『シングルマザーだとか、そういうことは気にしない。』

『過去の君があって、今の君があるわけだから俺は君の過去のことは気にならないよ。』

『職がなくても、職に就く気があるならそのうち見つかるだろうし、今無職であるということは気に病む必要ないよ。』

『恋人になるんだったら、ちゃんと”結婚”を前提に付き合おう。』

と、言ってくれる、寛大な人。
あれこれあって精神的に辛かったときに、寄り添ってくれたその人との再婚へのステップが一つ一つクリアされていく度に、”幸せ”と一緒になって”猜疑心”がやってくる。
『本当に、その”幸せ”って永遠に続くの?』

と。

 

今回の私の猜疑心の根底にあるのは”結婚に一度失敗していること”だ。彼もそれをよくわかっていて

『(君がシングルマザーだということで)不安になるなら、いつでも不安をぶつけてくれていいよ。俺の答えは変わらないから。』

といってくれている。私はそれに甘えて、何度も聞いてしまう。

”石橋を叩いて渡る”という諺は慎重さの例えだけれど、私の猜疑心は”石橋を叩いて壊す”。何度もきいてしまう私は、彼の”愛情”という石橋を叩いて壊そうとしているのに等しい気がする。薄々感ずいてはいたけれど、不安になる度に彼を困らせるような質問を何度もぶつけた。でも本当に、何度きいても彼の答えは変わらなかった。

 

何度もきいて変わらない答えを何度も言ってもらって、やっとわかったことがある。

それは、”幸せ”に対する”猜疑心”を打ち破るために”叩く”のは、幸せを提供している”相手”ではなくて、「何の努力もなしにその”幸せ”を維持しようとする”怠惰な自分自身”なんだ」ということ。

ドイツの格言に『父親になることは簡単だけれども、父親であり続けることは難しい』というのがあったけど、これの”父親”を”幸せ”に入れ替えれば、まさに今までの私。

何の努力もしないで、”幸せ”を維持しようと願うのがそもそもの間違いだったのだ。

”相手”にばかり”幸せ”の維持を求めないで、これからは自分自身でも精一杯の努力をしよう。

 

と、この記事を書いていたら、彼からメールが届いた。

 

『何度もいうけれど、不安になるなら何度でもきいてくれていいよ。

俺の答えは変わらないから。

幸せになっていいんだよ。

一緒に幸せになろう。』

 

 

ああ、いい人と巡り合ったんだな。

うん。幸せだ。

この幸せがいつまでも続くように、努力しよう。

 

心底そう思った。